History of Yokohama

1854

1月、ペリー艦隊は七隻の編隊で出現し、柴村(横浜市金沢区)の沖合に碇泊します。幕府は横浜に上陸させ、4回の会談を経て日米和親条約を締結しました。会談が行われたのは、横浜市中区にある現在の神奈川県庁付近です。現在、横浜市金沢区にある八景島にペリー艦隊碇泊地の記念碑が設置されています。

1854

横浜に上陸したペリー一行は米国大統領から将軍への贈り物として、2式の電信機を持ち込んだ。ペリーは贈呈前に横浜で電信機を据え付け、電信の実演を行いました。「ペリー日本遠征記」によると、日本との協定を結ぶ会場と、特別にしつらえた建物の2地点約1マイルに電線が張られ、英語、オランダ語、日本語のメッセージが即座に片方の建物から他方へ伝わるのに大きな驚きを示し、来る日も来る日も高官や人々が集まり、オペレーターに実演を懇願し、メッセージの送受を熱心に見入っていた」。と記録されています。 参照:ITUジャーナル Vol. 46 No. 7

1859

1858年、徳川幕府はアメリカをはじめとする欧米各国との間で次々に通商条約を締結した後、横浜、長崎、箱館(函館)の 3港が開港しました。参照:横浜税関 横浜開港150年の歴史

1859

神奈川宿の人 青木屋忠七氏 西洋洗濯業を横浜本町一丁目現在の五丁目にて始め ついで岡澤直次郎氏 横浜元町に清水屋を開業と記録されています。現在の横浜市中区山手町に記念碑が設置されています。参照:クリーニング業発祥の地記念碑画像:横浜開港資料館所蔵

1860

中国で写真館を経営していたオリン・フリーマンが横浜で日本最初の写真館を開業。その後、1862年に写真の技術を習得し、アメリカ人の写真家ジョン・ウィルソンからカメラやスタジオを譲り受けた下岡蓮杖は横浜市中区太田町に写真館を開業しました。現在の横浜市中区にある馬車道に記念碑が設置されています。参照:Amazing Graph / 日本写真開祖の碑

1862

横浜・入船町に、日本初の牛鍋屋「伊勢熊」が開店した。
当時、横浜の居留地には多くの外国人が暮らしており、神戸などから牛肉を取り寄せて食卓に並べるようになっていた。それを知った居酒屋の「伊勢熊」主人が、いち早く牛鍋屋のアイデアを思いついたものの、妻の猛反対にあい、店内を半分に仕切ってその半分だけを牛鍋屋に改装したが、その牛鍋屋が大繁盛し、結局専門店になったのだという。
現在、横浜市内には明治時代に開業した「太田なわのれん」「荒井屋」「じゃのめや」で牛鍋を味わうことができます。 引用:キリン歴史ミュージアム 酒・飲料の歴史

1862

イギリス人のロバートクラークが開業したヨコハマベーカリーが日本初のパン屋。当時、パン見習工として住み込みで学んだ打木彦太郎がヨコハマベーカリーの暖簾を1888年に受け継ぎ、現在も横浜市中区元町にて営業を続けています。参照:ウチキパン パンの歴史について

1862

初代駐日総領事ラザフォード・オールコックが書いた「大君の都」によれば、エドワード・ローレイロが横浜近郊にレタス、パセリ、キャベツ、カリフラワーなどを導入することに成功したとあり、この頃から西洋野菜が横浜で初めて作られるようになりました。現在では横浜に根付いた西洋野菜を「横濱開港菜」と名づけられ、広まっています。参照:横浜市環境創造局農政部農業振興課 横濱開港菜

1863

イギリス人のマコーリー男爵が居留地86番(現在の横浜市中区山下町)に開業した「ロイヤル・ブリティッシュ・ホテル」の設備に「コーヒールーム」の記録があり、ここでのコーヒーの提供が日本のコーヒー提供の発祥と言われています。参照:幕末・明治の横浜 西洋文化事始め 斎藤 多喜夫 (著)

1863

牛乳は、江戸時代の終わりごろ、千葉県出身の前田留吉によって初めて日本で売られるようになりました。前田留吉は20才の時にオランダ人に雇われ、乳牛の飼育管理や搾乳技術、牛乳処理技術を習い、1863年横浜に日本最初の牛乳搾取所を作りました。当時は大変高価なもので、幕府や政府の高官、外国人、病気療養者などごく限られた人々しか口にすることが出来なかったそうです。参照:千葉県酪農のさと 酪農事典

1864

実業家であり新聞記者でもあった岸田吟香は、アメリカ人医師・ヘボンより硫酸亜鉛を主成分とする液体目薬の処方を教わり、横浜で販売を開始しました。当時の目薬は精奇水と呼ばれ、翌年、東京・銀座に楽善堂という薬屋を開き本格的な西洋式目薬の販売が行われるようになります。参照:横浜が発祥画像:内藤記念くすり博物館所蔵

1864

歌舞伎俳優 沢村田之助は脱疽にかかってしまうが、当時横浜に住んでいたアメリカ人医師 ヘボン博士に左下腿切断をうけました。その後、アメリカ・セルフォ社製の義足をつけて、舞台に復帰した記録があります。この手術が日本の義足手術の始まりと言われています。参照:横浜ことはじめ (著)半沢 正時画像:横浜開港資料館所蔵

1865

横浜に来日したDr. W.C.Eastlakeは外国人居留地108番地で歯科医院を開業。日本での西洋流の歯科医学の始まりと言われています。参照:神奈川県歯科医師会 歯の博物館

1866

徳川幕府とイギリス・アメリカ・フランス・オランダとの間で締結された「横浜居留地覚書」にて、幕府側が競馬場として外国人に貸し出すことが取り決められ、イギリス駐屯軍将校らが設計・監督のもと、日本で最初の本格的な競馬場施設「根岸競馬場」を建設。日本で最初の競馬が開催されました。参照:公益財団法人馬事文化財団 横浜と馬、競馬の歴史画像:横浜開港資料館所蔵

1867

参道並木、街道並木など歴史的な並木道と異なる、近代的な都市の街路樹の始まりは横浜にある馬車道が最初と言われています。参照:日本の近代街路樹発祥の地 記念碑

1868

英国人医師ウィリアム・ウィリスは、横浜軍陣病院で当時起きていた戊辰戦争の患者治療にあたったのが日本で最初の本格的な外科医として活躍したと記録されています。参照:日本医史学雑誌第29巻第2号

1869

横浜山手46番地に日本で最初のビール醸造所ジャパン・ヨコハマ・ブルワリーが開設されました。その後、経営者や会社が変わり、現在のキリンビールとして受け継がれています。参照:麒麟麦酒開源記念碑画像:横浜開港資料館所蔵

1869

咸臨丸で渡米した勝海舟に私淑して、赤坂氷川町に住居を構えたと伝えられる町田房蔵は、明治2(1869)年6月(新暦7月)、横浜馬車道通りで日本で最初のアイスクリーム「あいすくりん」の製造販売を始めました。現在は当時をイメージして作られたアイスクリームが販売されています。引用:早分かり!アイスクリーム史 一般社団法人 日本アイスクリーム協会

1869

古屋徳兵衛横浜石川町に鶴屋呉服店を創業、その後、松屋として1890年に東京へ進出。横浜では1976年まで営業を行っていました。参照:百貨店 松屋沿革画像:横浜開港資料館所蔵

1870

横浜居留外国人の手によってつくられた、国内初の洋式公園です。日本で初めてテニスがプレーされたテニス発祥の地でもあり、現在も利用することができる公園です。参照:公益財団法人 横浜市緑の協会 山手公園公式サイト画像:横浜開港資料館所蔵

1870

横浜市中区にある本牧山妙香寺において、薩摩藩の「洋楽伝習生」が横浜・本牧に駐留していた英国陸軍の軍楽隊長から同寺で指導を受けたことが記録されており、日本吹奏楽発祥の地と言われています。参照:日本吹奏楽発祥の地記念碑画像:横浜開港資料館所蔵

1870

日本語で発行される日刊新聞は、現在の中区北仲通5丁目で 創刊された「横浜毎日新聞」との記録があります。また、冊子型木版刷りの旧型から 活字一枚刷りの現代型へと印刷方法も新しいものだっと記録されています。参照:日刊新聞発祥の地記念碑画像:横浜開港資料館所蔵

1870

明治新政府が誕生してから、1864年に各国領事と幕府との間で交わされた「横浜居留地覚書」に基づいて、居留地の下水道整備を実施。現在では当時作られた煉瓦卵形管が記念碑と共に見ることができます。参照:横浜の下水道の始まり記念碑 / 横浜市 環境創造局下水道計画調整部下水道事業マネジメント課 横浜の下水道の歴史

1871

県立十全病院(明治7年)、市立十全病院を経て、今日の横浜市立大学医学部病院へと発展してきています。参照:横浜市立大学 医学部医学科 医学研究科医科学専攻 沿革

1871

きっかけは、居留地での外国人たちによる日本人の立ち小便への不満。そこで、横浜町会が町の辻83カ所に板で囲った“つじ便所”を設置。これが日本の公衆トイレのはじまりとされています。参照:横浜中華街発展会 中華街小故事画像:横浜開港資料館所蔵

1872

日本で最初の鉄道開設は新橋と横浜間の開業と言われています。当時の横浜駅は現在の桜木町駅となり、場所が異なっていました。参照:国立公文書館 デジタルアーカイブ

1872

実業家・高島嘉右衛門は伊勢山下石炭蔵前に横浜瓦斯会社を設立。フランス人技師アンリ・プレグランを招いて工場の建設を進め、神奈川県庁付近および大江橋から馬車道・本町通りまでの間にガス街灯十数基を点灯させたことが日本のガス事業の始まりと言われています。当時の会社は東京ガス株式会社と合併しています。参照:日本ガス事業発祥の地 記念碑画像:横浜開港資料館所蔵

1872

知っていますか?実は横浜発祥の会社です

1873

明治初期の横浜の実業家である堤磯右衛門は日本最初の石鹸製造所を創業。その後洗濯石鹸、化粧石鹸の製造に成功したと記録されています。参照:石鹸工場発祥の地 記念碑画像:横浜開港資料館所蔵

1875

横浜在留米国人ブラウァーが横浜戸部にマッチ工場「ジャパン・セイフティ・マッチ・カンパニー」を設立したと記録されています。参照:一般社団法人 日本燐寸工業会 明治のマッチ年表

1875

開港時にはイギリス、フランス、アメリカの運行会社が上海と横浜に航路を持っていましたがこの年、三菱商会が定期航路を開いていた記録が残っています。参照:アジア歴史資料センター 公文書にみる明治日本のアジア関与

1877

横浜元町の石川孫右衛門が貸自転車の営業を始めた。居留地31番地のチリドル商会を通りかかったときに館主チリドルが自転車に乗っているのを見かけた。乗り方をチリドルに教わり、これを時間貸ししようと思い、営業を始めたことがこれがわが国最初の貸自転車屋といわれています。参照:タイムスリップよこはま画像:横浜開港資料館所蔵

1882

現在の横浜市中区尾上町で眼科医を開業、その後、移転すると同時に職を失った元鍼灸術師の盲人に医学を講義。この医学指導が発展し盲人の職業的な自立に対する支援の「鍼治揉按医術講習学校」の看板を掲げるようになります。これが後に、現在の横浜市立盲学校となっていきます。参照:YOKOHAMA xy通信 / 横浜市立盲学校の歴史

1884

はじめてオルガンを量産した日本人技術者である西川虎吉のおこした西川楽器製作所が日本で初めての国産オルガンと記録されています。参照:オルガン製造の碑

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1885

知っていますか?実は横浜発祥の会社です

1885

知っていますか?実は横浜発祥の会社です

1894

開港後、様々な船が発着する大さん橋は当時は鉄桟橋、メリケン波止場と呼ばれていたようです。参照:土木学会デジタルミュージアム 日本の土木技術年表画像:横浜開港資料館所蔵

1903

西洋野菜栽培農家の一人、清水與助氏は西洋野菜の栽培だけでなく、トマトの加工事業を始め作られたのがケチャップのはじまりと言われています。現在は当時の資料を元に改良を加え、再現を行ったトマトケチャップが販売されています。参照:横濱屋本舗

1904

現在の青木橋周辺~桜木町間で初めての路面電車が開通。1972年まで運行されていました。参照:横浜市交通局概要画像:横浜開港資料館所蔵

1905

京急線の品川~神奈川間が開通しました。参照:乗りものニュース

1908

知っていますか?実は横浜発祥の会社です

1908

「横浜鉄道」という私鉄として開業

1910

知っていますか?実は横浜発祥の会社です

1910

知っていますか?実は横浜発祥の会社です

1911

現在もKN日本大通ビルとして利用されているこのビルは日本初の全鉄筋コンクリート造建築。関東大震災の影響を受けることもありませんでした。参照:一般社団法人セメント協会 セメントの歴史を訪ねる

1911

関内駅近くの伊勢佐木町に街の象徴ともいえる映画館「オデヲン座」がありました。日本最初の洋画専門館として、輸入した新作洋画のフィルムの封を切り、いち早く上映していたことから「封切り」という言葉もここで生まれたとのこと。2000年まで営業していました。参照:関内新聞画像:横浜開港資料館所蔵

1911

新港ふ頭建設の一環で国の保税倉庫として建設された赤レンガ倉庫はこの年に完成。現在は観光スポットとして新たな役割を持つ場になっています。参照:横浜赤レンガ倉庫の歴史画像:横浜開港資料館所蔵

1915

横浜市営地下鉄 高島町駅付近に2代目の横浜駅が作られます。そのわずか8年後の1923年に関東大震災によって焼失。幻の駅と言われています。参照:二代目横浜駅基礎等遺構画像:横浜開港資料館所蔵

1917

現在の花月園競輪場跡地にあった児童遊園地「鶴見花月園」内に作られたダンスホールは日本初の常設ダンスホールとして記録に残っています。参照:タウンニュース画像:横浜市中央図書館蔵資料(BUTO-JO IN KAGETSUEN TURUMI)

1917

知っていますか?実は横浜発祥の会社です

1920

知っていますか?実は横浜発祥の会社です

1923

横浜市の火災発生は約290個所、住家全潰棟数は約1万6千棟と東京市の1万2千棟をはるかにしのぐ大きな被害をもたらしました。参照:内閣府 広報 ぼうさい No.39画像:横浜開港資料館所蔵

1928

関東大震災で消失してしまった神奈川県本庁舎は地震に負けない新しいシンボルとして作られました。「キング」の名で街に愛されています。参照:株式会社大林組 OBAYASHI Thinking画像:横浜開港資料館所蔵

1930

ホテルニューグランドの2代目総料理長入江茂忠が、米兵が茹でたスパゲッティに塩、胡椒、トマトケチャップを和えた物を食べているのを見て、アレンジ加えて生み出した一品。現在もホテルで味わうことができます。参照:ホテルニューグランド発祥の伝統料理

1930

関東大震災後、震災復興事業の一つとし、市内の瓦礫処理と、再び災害があった時の避難所にもなる公園をつくる目的で建設が始まり、日本初の臨海公園として誕生しました。参照:山下公園 公園の解説画像:横浜開港資料館所蔵

1930

調理人達のまかない料理で、とろみを付けた肉そばが原形になったと言われています。 神奈川県横浜市中区の中華料理店で生まれました。サンマーメンは漢字で「生馬麺」と書きます。「生=サン 馬=マー」は広東語の読み方とのこと。参照:かながわサンマー麺の会

1933

知っていますか?実は横浜発祥の会社です

1933

日本で最初に配置された救急車はアメリカ製のキャディラックで、8気筒32馬力、最高時速40Km、当時、交通の主力は荷車や馬車、自転車だった街中で活躍していたようです。参照:横浜市救急救命士会

1934

「クイーン」の愛称で親しまれる塔はイスラム寺院風のドームでエキゾチックな雰囲気。横浜市認定歴史的建造物に登録されています。参照:横浜市観光情報サイト

1935

関東大震災から立ち直った横浜市が復興を記念して産業貿易の全貌を紹介するため、山下公園約10万平方メートルを会場に開催した。参照:乃村工藝社

1954

公立施設としては日本で初めての本格的な音楽専用ホールとして開館。最高の音響効果をあげるように設計されたホールは現在も利用されています。参照:神奈川県立音楽堂

1955

中華文化のシンボルである牌楼(ぱいろう)、「善隣門(ぜんりんもん)」を建立。この門に、中華街という名が刻まれたことで、この地域に中華街の名が定着することになります。参照:横浜中華街発展会 中華街小故事

1961

横浜港のシンボルをめざし、1961年に開港100周年記念事業の一環として設立。2008年までは灯台としての機能も備えていました。現在は改修工事中で、2022年以降の営業再開を予定しています。参照:全日本タワー協議会

1964

東京オリンピックに合わせて、ターミナルが整備されました。参照:横浜港大さん橋国際客船ターミナル画像:横浜市中央図書館蔵資料(大桟橋の全望)

1974

家系ラーメンの名で全国に知られていますが、生まれたのはこの年。現在も発祥の家系総本山 吉村家でルーツの味を楽しむことができます。参照:家系総本山 吉村家

1978

知っていますか?横浜のスポーツチームはこの年からスタートしました。

1979

知っていますか?実は横浜発祥の会社です

1982

知っていますか?実は横浜発祥の会社です

1989

世界最大級の斜張橋で、その姿は現代の横浜のシンボルともいえる。2本のタワーの間隔は460m、桁下は55mもあり、世界最大の客船クィーンエリザベスII世号が通過できるようになっている。現在は首都高速だけでなく、一般道も山下ふ頭近くから、大黒ふ頭まで走ることができます。参照:かながわの橋100選

1989

同年に開催された横浜博覧会のパビリオンとして誕生した大観覧車「コスモクロック21」。終了後も存続が決定し、1999年3月、現在の場所に移設され、現在も利用することができます。参照:よこはまコスモワールド

1990

知っていますか?横浜のスポーツチームはこの年からスタートしました。

1992

知っていますか?横浜のスポーツチームはこの年からスタートしました。

1993

1983年に開発計画検討を開始、1993年に完成。展望フロアへは日本最高速のエレベーターに乗り約40秒(分速 750m)で到着することができます。参照:横浜ランドマークタワー 施設概要

1999

知っていますか?横浜のスポーツチームはこの年からスタートしました。

2001

横浜市金沢区から、横浜ベイブリッジ、鶴見つばさ橋を経由し千葉県市川市までを結ぶ首都高湾岸線は2001年に全線開通します。参照:首都高速道路株式会社 路線案内

2002

1995年に国際デザインコンペで最優秀作品が決定し、2000年に工事着工、2002年に幅110m、長さ450mの規模で完成します。参照:横浜港大さん橋国際客船ターミナル

2006

東京都江戸川区小松川が発祥の野菜ですが、農林水産省の統計によると、それまで収穫量トップだった江戸川区を抜いて、横浜市が全国1位になりました。農水省統計情報データベース

2011

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2018

世界で始めて開発された、種無しピーマン。花の雄しべからは花粉がでないから、種ができないとのこと。園芸店で購入可能です。参照:横浜植木株式会社

2020

2009年から「エキサイトよこはま22」という計画の元、横浜駅とその周辺地区の開発が行われており、横浜駅西口に駅ビル機能を持つ建物が完成しました。参照:横浜市都市整備局都心再生部都心再生課 エキサイトよこはま22

2020

1959年に完成した7代目横浜市役所から、新たに場所を移転し、地上32階・地下2階、高さ約155メートルの建物が建設されました。参照:ヨコハマ経済新聞

2020

第56回日本眼光学学会総会 今回は会場をパシフィコ横浜からオンライン上へ変更し開催